定食屋で腹いっぱい

 ここ数年は、フリーランスという都合のいい言葉を後ろ盾に、会社勤めすることのない気楽な身分のまま仕事をさせてもらっている。仕事がなければ無職と変わらないので、日によっては「無職とみなす」ということもできるだろう。今日は仕事と仕事の谷間なので、みなし無職状態ということだ。

 現状のように外出しにくい状況においても、基本的には家で仕事をすることが可能だ。実際には客先に呼ばれて、そっちの事務所で作業させられることが多い。それは、家でもできることを対面でやりたいという、先方の旧態依然とした心情に配慮しているだけだ。こちらは在宅で、何ら問題ない。

 などとリモートワークに積極的な人間のような偽装をしているが、僕としても外出は楽しみではある。家で仕事をしていると、結局面倒になって家で昼食を食べてしまう。夜も家で食べる。ほとんど出かけない。そんな閉じた状態では健康的ではないと思う。最近、すっかり足が白くなってきたぞ。

 だから、月に数日でも外に呼ばれると気分転換になるし、その限られた機会を逃したくない。必ず「良いランチにしてやる」と気合いを入れて臨んでいる。腹も満たされ、新しい発見もあり、ついでに写真映えするようなものであればSNSに投稿だい! ランチひとつに過重な期待を寄せている。

 本当は定食屋が理想なのだが、都内の主要な街に都合よく定食屋がなかったりする。あっても街に1軒の老舗で、ランチ時は超絶混んでいることが多い。結局はラーメン屋かカレー屋が手堅いのだが、そればかりだと世界は広がらない。それならラーメンかカレーを掘り下げて深めれば良いのだが。

 例えば3日、同じ職場に通ったとする。初日にラーメンを食べると、2日めはご飯ものにしたくなる。その場合は中華屋に行くが、中華屋でもつい半チャンラーメンを頼んでしまう。3日目こそは何かしらの定食を食べるのだと息巻いても、結局カレーを食べてしまう。良い定食屋は見つからない。

f:id:SUZICOM:20200731115041j:plain

家の近所に理想の定食屋はあるが、メニューが変わらないので飽きた。

ショートカットのならず者

 学生時代は部活の遠征でいろいろなところに行ったような気がするのだけれど、やることはラグビーの練習か試合だけなので、その土地のことはあまり覚えていない。合宿では、朝の練習以外は練習試合ばかりなので、その合間に多少の空き時間はある。でも、体が疲れ切っているので寝るだけだ。

 ただ、上級生になってくると、空き時間を持て余す程度には体力的な余裕が生まれる。その頃の僕は、出先で髪を切るというのに凝っていた。髪型を気にしないので、誰が切ったって同じなのだ。それならば、近所の床屋ばかりじゃなくて、なんの縁もゆかりもない土地で切ったところで問題ない。

 ある合宿で、公式戦の前乗りで試合会場の近くに泊まった時、午前中はバス移動で午後から練習ということだった。宿舎の近くに床屋があるのを気に留めていた僕は、昼食後の練習時間まで結構空くので「切っちゃおう」と思い、その床屋に向かった。午後の練習で突っ込まれる程度に短く刈った。

 その床屋でのやりとりは一切記憶覚えてないが、午後の練習で集まった時に先輩から「あれ、なんか短くない?」と言われた時は、小さな達成感があった。学校で練習している時に髪を切ったところで、それは日常なのだ。でも、知らない土地で床屋に行っただけでこんなインパクトを与えられる。

 これが1年生の頃だと、こうはいかない。同部屋の先輩に付いて、身の回りの世話をしなければいけない。とは言っても、別に靴下を履かせるとかトイレの世話をするとかの介護ではない。ただ、部屋に居残って用事を言付かった時に動けるように待機せよ、ということだ。平たく言えばパシリだ。

 僕は2年生だったと思うが、そこで後輩に「自由とはこの程度のことなのだよ」と背中で語ったつもりはない。でも、僕が宿舎の斜め前の床屋に向かう時に小さな自由を感じたのは覚えている。しかも、知らない土地で髪を短くする行為は再出発の感じもある。まるで逃亡者のイメチェンのように。

f:id:SUZICOM:20200730140859j:plain

知らない土地は、細部に慣れない仕掛けが施されていて落ち着かない。

現世は仮の住まいか?

 街で見かける「変なカタチ」の建物を訪問するTV番組が好きだった。狭い三角形の土地に無理やり立てた、ショートケーキを細くカットしたような建物は街中でもよく見る。あの先端部分、つまり最細の内観を見たいのだ。ただ実際に見るとファンタジーではなくなるので、今は見る必要はない。

 これもTV番組を観ての記憶だが、マンションの部屋を建て増ししすぎて奇妙な形になってしまったものを観たことがある。大して熱心に観ていた記憶はないのだが、その記憶を元にしたと思われる変なカタチのマンションの夢をよく見ていた。夢なので、設計的な根拠のない適当な仕上げである。

 子供の頃の夢で言えば、やはり「トムソーヤの冒険」に出てくるハックのツリーハウスだ。それは、小さい頃に持てなかった自分の部屋への憧れでもある。今は、あんな不安定な場所に家を持ちたいとは考えないが、キャンプ場などでツリーハウスを見ると「あ、住めるじゃん!」と思ってしまう。

 住む場所への憧れで言えは、やはりハードボイルドな住み処は倉庫だ。ホコリっぽい倉庫の2階で、拾ってきたようなボロいソファに腰掛けてバーボンを飲むのだ。そんな倉庫暮らしを見て思うのは「DIYでもっと良い部屋にできる」ということ。そんな感性はハードボイルドと呼ばないのだが。

 ただ、倉庫暮らしをしているやつは大体が正規の住居を持てない「追われる者」だ。グラサンで黒スーツの連中が、銃を持って踏み込んでくるのだ。だから、せっかくDIYで快適な部屋にしても、見るも無残に壊されるのがオチだ。追われる男とは、手荷物ひとつで即日旅立てなければいけない。

 最近では、田舎暮らし特集などでよく見る、空き家を安く貸し出すサービスなどにも興味はある。特に昨今のリモートワーク時代には、ネット環境さえ完備されていればどこでも仕事はできる。この手の行動は速さがものを言うので、思い立ったが吉日だとは思うけれど、まだ思い立ってはいない。

f:id:SUZICOM:20200729114955j:plain

凝った意匠の建物を見ると、分からないクセに金の計算をしてしまう。

アニマルのマニュアル

 小さい頃は家で犬を飼っていたと両親から聞いたことがあるが、犬に懐かれるタイプではない。よく行く得意先が飼っている代々の番犬たちには、毎度噛まれる。特に先代の番犬は優秀で、僕のお気に入りのスニーカーに歯型が残っていた。今はそのスニーカーも番犬も、この世にはいないらしい。

 動物に関しては、特に犬との相性が悪いらしい。僕は信じていないが、前世があるなら、生類憐みの令をシカトして犬をいじめまくっていた輩の生まれ変わりなのかもしれない。ただ、それだと犬も必ず犬として生まれ変わっていることにならないか? こういう矛盾が生じるから前世話は嫌いだ。

 遡ると、小学生時代に最初のバイト体験があった。このバイトは英語の「噛む」の意だ。同級生の家に「開けてはならぬ」という扉があり、そこを迂闊にも開けてしまった僕は、中から飛び出してきた茶色に腕を噛まれた。同級生の母親には「だから開けないでって言ったのに」と怒られるという。

 別に痛くも何ともなかったのだが、噛まれた箇所から出血があったので泣いてしまった。その上、その母親が「狂犬病の予防接種を打ってないのよね」などと不吉なワードも聞こえてきた。暗に「何かあっても知らんからな」という脅しめいた雰囲気も出していたが、それは今考えると、という話。

 その件以降も、犬と幸せな付き合い方をしたことがない。唯一の接点といえば、前に住んでいた家からバス停までのルートにいたシェパードくらいだ。その犬とも相性は悪かったので、毎朝毎晩、そこを通りかかるたびに激しく吠えられた。当初はビクッとしてしまったのだが、次第に慣れてきた。

 その犬が怖いのは、敷地の柵に前足を叩きつけて突進しながら吠えることだ。移動できるロープに繋がれているので、長い助走をつけて当たってくるから勢いがすごいのだ。ある日、機嫌が悪かったので犬が吠える前に睨みつけてやった。すると、シュンとして吠えなかった。それで間を見切った。

f:id:SUZICOM:20200728135505j:plain

飼い犬と相性が悪いだけで、動物愛護の精神は持ち合わせている。

こころ揺さぶるマニアたち

 先日、長いこと探していた文庫本を書店で見つけたので、即ゲットした。発売して間もない頃は書店に平積みしてあったのだが、翌週になると棚に移動される。さらに数週間経つと、もはや書店では見かけなくなる。初版が売り切れたら重版ということになるが、出版不況の昨今ではそれも珍しい。

 そんなわけで、買えるタイミングでスルーした本なのに時間経過とともに「買っておけばよかった」と思うことはよくある。マンガにも同じようなことが言える。書店のラインナップは回転が速い。一度すれ違うと再会することは困難だ。では、なぜ最初のタイミングで買わなかったのかという話。

 その本のタイトルは「マゾヒストたち・究極の変態18人の肖像」という。この本の作者である松沢呉一さんの作品は他にも数冊読んでいるが、風俗方面に詳しいライターさんである。最初に氏の文章に触れたのはメタル専門誌のコラムだった。そこに記された過激な言葉が思春期の僕に刺さった。

 つまり、僕はこの人の文章には免疫があるわけだ。それでも、最初の段階で引いてしまったのは怖かったからだ。この変態の世界を覗き込んだら「二度と元の生活に戻れないのではないか」という恐怖だ。すでに読み終わっているので元の生活には戻れた。杞憂に終わった。だから人に貸してみた。

 僕がよく本を貸している酒場のバイト女子に「もう普通の本じゃ面白くないでしょ? 刺激が欲しいでしょ?」と無理強いして貸してみた。それは、ある種の実験でもある。内容が面白いことは間違いないのだが、興味もないのに覗くのには酷な気もする。それと同時に普通に楽しめる気もする。

 あとは、その本がインタビュー形式で読みやすいので、強烈な変態プレイの話も「見る」ではなく「聞く」かたちで入ってくるから逃げ場があるように思われる。それに「究極の変態」の行為は、この世にそれ以上がないということだ。キワの話を聞けることは貴重な証言でもあり、勉強にもなる。

f:id:SUZICOM:20200727182626j:plain

常識に囚われているとブレイクスルーできない。納豆ラーメンも新常識。

熱き星たちに誓う

 プロ野球の応援の仕方は人それぞれ。ファンの数だけ応援するスタンスやスタイルが違って良い。好きだけど球場には行かない人がいれば、グッズを買って球場で声出して応援するのが好きな人もいる。データを集めて、それを元に分析するのが好きな人がいれば、ただ、ぼんやり好きな人もいる。

 そもそもプロ野球を好きじゃなきゃいけないという制約もないわけで、野球が嫌いな人がいたって構わない。興味がない人には多少好奇心を広げた方が良いと思うが、嫌いと断言する人には「何かあった」と思われるので無理強いはしない。もともと僕も熱心なファンではない。周りからの影響だ。

 僕が子供の頃は、漠としたプロフィールの中に「好きな球団は?」という設問があったように思う。新しい関係ができると、誰かしらに聞かれる質問だ。特に僕は少年野球をやっていたので、それは普通に聞かれる。僕は先に述べたように熱心な野球ファンではないので、回避策で誤魔化していた。

 要は、あまり人気のなさそうな球団を挙げておくと周囲の興味から外れるのだ。よく言えば「個性派」悪く言えば「変わり者」として、野球談義の埒外に置かれることになる。そうなるために回避策を講じたわけだが、さすがに少しは寂しい。その回避策が「大洋ファン」というチョイスであった。

 たまに詳しいヤツに「あの時代の誰々はすごかった」などと言われて言葉に詰まることがある。僕は大洋ファンから始めて現在に至るまで、その横浜の球団しか応援していないことにしてある。でも「熱心じゃない」という部分は伝わってないので、広義の野球ファンから話を振られると困るのだ。

 ここ数年は毎年、それぞれの選手に注目して観ているので、比較的わかって応援している。失策が多いのが気になり、その点を冷やかし半分で指摘してしまう。昨日は横浜が勝ったのだが、ヒーローインタビューで「僕らはミスをかばい合うチーム」とエースが言っていたので、もう冷やかさない。

f:id:SUZICOM:20200726130733j:plain

去年の夏にええ席で観たええ思い出。でも、試合は負けちゃった。

どこかで会ったに違いない

 酒場で会って話すようになっている人の中には、知らぬ間に仲良くなっている人がいる。最初に酒場通いをするようになった頃は、ひとりで飲みに行くことはほとんど無かった。連れがいるから、周りの常連とは壁ができてしまう。その壁を取っ払うためには、ひとりで飲みに来なければいけない。

 同じ飲み屋に通う者同士というのは、同じサークルに属しているような部分がある。同じサークル内には仲が良い者もいれば、ほとんど話さない者もいる。いつの間に仲違いしている険悪な関係性もあったり、そんな険悪な関係性を経て再度仲良くなるようなのもある。僕はそれらの傍観者だった。

 でも、いつの間にか同行者もなく、ひとりで飲みに行くようになった。同行者のペースに合わせるのが面倒だし、自分の気分で飲みたいと思うようになったからだ。そうなってから、しばらくは傍観者でいられた。面白いバーテンダーがいたので、その人と話すために行っていた。その人は男だが。

 そのバーテンダーと話しているだけなので、周りの常連客の顔は覚えても話すことはなかった。たまに話しかけてみても、そういう社交性が身についていないので警戒される。心を開く感じになってくれない。本当は、そこからさらにズケズケ踏み込まないといけないのだが、それができなかった。

 それでも同じ店に長く通うようになって来ると、次第に周りの人とも話すようになる。話して、知った方が人間観察は楽しい。だから、そうやって集めた情報をもとに周りを眺めていた。そのうち関係性が見えてきて、ここは当初思っていたほど排他的なサークルではないことが分かってきたのだ。

 というか、一般的なマナーさえ守っていれば、酒場なんて自分の気分次第で好きに楽しんで良いのだ。何も怖くない。もはや周りの関係性ウォッチングにも飽きて、ダラダラと飲んでいるだけだ。知った顔もいれば知らない顔もいる。知らない顔に話しかけられたら楽しく話す。そんな毎日である。

f:id:SUZICOM:20200725114622j:plain

人と人をつなぐ架け橋。歳をとると、そういうお節介気分も芽生える。