ひとからすかれるかお

 他人の見た目を評価する発言は下品だとされる風潮は、ここ数年でかなり浸透してきた。TV画面の中で行なわれる茶番だと、それは足かせになるらしい。外見での面白さをツッコめないと困るという言い分らしい。でも、どんな時代にも不自由なことはあって、そこを工夫して楽しむのが大事だ。

 僕は人の外見をあーだこーだ言うのは好みではないのだが、僕の周囲にはそういう微妙な表現をストレートに言いたがる人間が多い。TVじゃないんだから何言ったって自由だと大きな声で宣言するのだ。自由を主張する人間にロクなヤツはいない。その自由と相反する自由もこの世にはあるのに。

 偏見で他人を評価する人間は、基本的には開き直っている。話しても通じないのだ。だから遠ざけるしかないのだが、同じ酒場の常連同士なのでよく顔を合わせる。会う機会が増えると多少の親しみも湧くので、次第に仲良くなってしまう。でも、当人の本質は相変わらずルッキズムを貫いている。

 このように、僕は外見至上主義に捉われないようにしている。自分の中に外見へのコンプレックスや憧れが皆無なわけではないので、意識的に「他人の外見は相対評価にすぎない」と言い聞かせている部分はある。でも、それ以上に思うのは誰の顔も長く見ていると親しみが湧くものだということ。

 そして、やはり「良い顔」というものはあるのだ。それは顔相に近い感覚だと思うが、幸せを感じさせる顔のカタチはある。僕の好みだとかコンテスト的な評価ではなく、いるだけで周囲の照度が数パーセント上がるような自然な明るさがある。そういう才能は、本人には自覚できないことだろう。

 行きつけの居酒屋の元バイト女子が、そんな生まれつきの顔相を持っていた。地味な子なのだが、人間の正しさを具現化したような迷いのない明るさを感じさせる。その子が久しぶりに店に顔を出していたので、古刹の有り難い仏像を拝むような心境で見に行った。ちょっと得した気持ちになった。

鶴岡八幡宮内の石橋。神域のものを有難いと感じるのは経年劣化だろうか。