完全無欠の正義を創作

 僕は小説や映画などで、勧善懲悪ものをあまり好んで選ばない。ハッキリ正義と悪が分かれるような世界なんてないと思うから、正義側の人物が語る正義感が嘘くさくて冷めてしまうのだ。でも、その境界がハッキリしない話ばかりを選んでいると、たまには白黒ハッキリしたものを浴びたくなる。

 そんな時に便利なのがゾンビ映画だ。ゾンビはどんな場合でもぶちのめして構わないことになっている。この設定の中に感情の揺れなどを持ち込んだら、いよいよ世界は閉塞感で窒息してしまう。ゾンビくらいは好きに退治させてほしいのだ。明らかな嘘の世界なんだから、ぶっ壊しても構わない。

 僕は別にゾンビ映画のマニアではない。この世界に深い造詣を持ったマニアが大勢いることは薄っすら聞いているので、あまり深入りはしたくない。僕は理路整然と論破されると無力化してワンランク暗くなると言う性質を持っている。幼い頃はもっと明るい性格だったが、何度かランクを下げた。

 当初は僕がスカッとしたゾンビ映画を紹介しようと思って駄文を打ち込んでいた。でも、やはり知識が追いついていない事柄について触れるのは怖い。これ以上、僕の性格を暗くしたくもない。いまはギリギリ明るい側にカーソルがあるが、少しの振動でダークサイドに落ちてしまいかねないのだ。

 かなり話が逸れたが、勧善懲悪ものというと時代劇が思い起こされる。TVドラマの時代劇であれば、視聴者が期待しているのがソレだから全然構わない。それは様式美というものだろう。この世界でも悪党は切り捨てて構わないことになっている。変に情をかければ仕返しされるので容赦無用だ。

 冒頭で僕は勧善懲悪ものを選ばないと記したが、最近は善悪の曖昧な話に飽き飽きしてきている。特に創作では、誰もが善悪の両面を持っていると話し始めると、その話自体が収束できなくなる。かつての少年マンガの打ち切りのように「未完」のような終わりを迎える。創作が現実に負けている。

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南インドの名もなき沼と水牛。日常に善悪などなく、ただ日々の生活がある。