口は悪くても温かい手

 年上で正直な人は、口調も荒いことが多い。修飾語を廃してバッと喋るから強い言葉になるだけで、本人に荒くれようという意識はない。ただ、正直な上に気も短いので、なるべく最短で伝えたいのだ。その伝わり方は、言葉の正直さより荒さが目立ってしまい、印象としては「口わるっ」となる。

 でも、ぶっきらぼうで嫌われている年配の人をあまり見かけないので、その口調の荒さは計算されているんじゃないかと思っている。初めから砕けた口調だと関係性の調整が必要ない。その荒さに引いた人は徐々に慣れればいいだけだし、意気投合した人は仲良しになる助走ゼロでマブダチになる。

 そういう人は若い頃から変わっていないと自分で言うので、それは本当なんだと思う。ただ、その口調を周りから改めるように注意されることは多々あったと思うのだ。それを上手くやり過ごして今に至るのだから、計算されて洗練された「ぶっきらぼうの完成形」としてたどり着いた形だと思う。

 その手法は誰でもできるものじゃないし、僕がここに記している時点で自分にはできないと諦めてもいる。もっと感性で生きている人のやり方だと思う。いや、生き方と言い換えても良いだろう。仕事も私生活も分け隔てなく変わらぬ自分で過ごすこと、しかも強めの人格を通すのはシンドいはず。

 強いアティテュードを貫いている人は、自分が強めに行っている意識があるはずだ。それがマウント取りにならないように、絶対に敵わないんだぞという姿勢で相手に対する。優しくも怖くもなく、ただ「荒い」という人格で接し続けるのだ。しかも、それは身近で見たことのある荒さに近いのだ。

 単純化してしまうと「古き良き父親像」みたいなステレオタイプがそれに近いだろう。だから、誰もがその距離感で接するようになる。本人的には正直でいられるから楽なのかもしれないが、それでも覚悟は必要になると思う。自分の軸のようなものだ。僕には果たして軸があるのかと疑問になる。

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江戸っ子のぶっきらぼうさはポーズというか、もはや様式美に近いと思う。