声量なきジャイアン

 今ではそうでもないが、少し前まではカラオケが大嫌いだった。もともと歌が上手いわけではないので、人前で歌う恥ずかしさは多少ある。それでも好きな歌を歌うのは楽しい。ただ、カラオケという場所が嫌いだった。もっと言えば、カラオケで孤立させられた経験があり、軽い傷になっている。

 高校のラグビー部OBで集まった時のこと、飲み会の後でカラオケになだれ込んだ。地元のカラオケボックスでふた部屋に別れて歌っていると、僕の歌っていた部屋じゃない方が盛り上がっている。その気配を察知してみんな別の部屋に移動してしまった。僕が矢沢永吉を歌っていた途中のことだ。

 地元のカラオケボックスなので、また別の部屋で違う同級生グループが歌っていたのだろう。それと合流して盛り上がっていたようだ。全員が一目散に走り去る中、部屋の隅を見ると1人だけ同級生が残っていた。孤独に歌っていたわけじゃなかった。なので、最後まで歌い切らなければいけない。

 僕は、自分がもっと面白い人間なんだと思っていた。だから、周りの同級生も僕といて楽しいのだろうと考えていたところがある。甘く見ていたというより、もっと確信を持って周囲と楽しさを共有している気になっていた。その時までは! それを明確に否定された瞬間なので鮮烈に残っている。

 その時の顔ぶれは覚えてないが、隣の部屋に向かう時のテンションの高さは覚えている。そこに悪意なんてない。ひとりで盛り上がらない曲を歌う同級生を「孤立させたろう」なんて意思はない。そこにあるのは「アッチの方が楽しいに決まってるじゃん」という無邪気。コッチは楽しくないから。

 それを突きつけられた20代前半の僕は、楽しくない自分を受け入れない。今でも何かの間違いだと思っている。でも、面白いと思う感覚は相対的なものだ。仲良くないヤツが面白いことを言っても、誰も笑わない。あやしいヤツだと疑うくらいだ。つまり、高校の同級生とは仲良くなかったのだ。

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田舎道を走っていると、唐突に毘沙門天。異物である。孤独である。