共鳴する魂の叫び

 小さい頃から「人と違うこと」に目をつけることで、感性を磨けると信じて来たようなところがある。そのころは「みんな違ってみんないい」みたいなことを言われた記憶はない。でも、人と同じでは面白くないと直感的に信じて来た。だから、極端に孤立を恐れるような気持ちもなかったと思う。

 子供にとっての孤立は、学校でいじめられたり集団から疎外されたりする具体的な孤立だ。時には暴力的でもある。当時は「そうなっても良い」と思ったことはない。今よりも緩いものではあったが、僕が子供の頃にも同調圧力というものはあった。ただ、生徒数が多いので自然に多様化していた。

 だから、僕も自然に「人と違うこと」を求めていた。序列ができて、誰かが上位に居ついてしまったら、そのジャンルはもう終了なのだ。自分から新ジャンルを確立して、圧倒的な頂点に立つしか道はないのだ。この感覚は同世代的なものだろうか。あまり同世代の人間には聞けないことではある。

 まだ大らかだった20世紀には、街に変わった人が必ずいたと記憶している。僕の街にも、みんなから親しみを込めて「ちゃん」付けで呼ばれるおじさんがいた。そういう人をイジるのは不謹慎という発言も、クラス委員的な生徒からは出ていたと思われる。そういう感覚には違和感を持っていた。

 都内の学校に家から通っていた頃、途中の乗り換えで連絡通路を歩いていると、必ず歌声が聞こえて来た。連絡通路の中程で、いつも歌っているおじさんがいた。その声や、熱唱するおじさんの佇まいもコミで、その連絡通路の風景のように感じていた。そこに感情移入はなく、単なるオブジェだ。

 そのおじさんをよく見かけていた期間内に、おじさんが誰かに注意されたりするのを見たことがない。いつも当たり前のようにいて、独特のポーズで歌っていた。歌は上手かった。でも、何という曲を歌っているのかはわからない。ただ、不快じゃないから問題視されなかったということだろうか。

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かつては公共の、屋根のある場所には誰かが住んでいた。最近は見ない。