悪趣味の壁を超えろ

 下品だったり汚かったり不快に感じるような表現のものがある。小説などの創作物には、あえて汚かったり、人を嫌な気分にさせるものを見せる場面がある。清濁合わせ飲むというが、キレイゴトだけで表現されたものはウソくさい。そういう世界は絵空事なので、大多数が共感できないのである。

 振れ幅があると物語が立体的になる。善悪など、この世の中は表裏一体だったりすることが多い。大きな善行のために、小さな悪事に眼を瞑るとか。僕のような一般人の感覚で言えば、大きな善行を行う者なんて悪人にしか見えないのだが。結果が良ければプロセスは問わない人たちだと思うのだ。

 まあ実際の社会の仕組みはわからないし、仕組みで動いているように見えるのも錯覚かもしれない。創作物の中の話に戻そう。悪いヤツを表現するためには、絶対に対抗馬として正義漢を置かなければいけないと思っていた。悪さを際立たせる舞台装置だ。でも、その対立構造もステレオタイプだ。

 ピカレスク小説というジャンルがある。犯罪者が主役になるタイプの小説だ。漫画でも、映画でもそのジャンルのものは多い。「ゴルゴ13」や「ルパン三世」などがそれに当たる。主役は犯罪者だと言うのに、読み手のコチラはスナイパーや泥棒である主人公の方に肩入れして読んでしまうのだ。

 そんなプロ犯罪者の物語にしても、それを追う警察や犯罪を取り締まる組織が対になる正義として登場する。ただ、最近読んだ本では、誰ひとりとして善意の側の人間が登場しないものもある。全員が悪く、悪いことを考える者同士の「先の読み合い」によってスリルが生まれる構成になっている。

 最近、そういう小説を知り合いにすすめられて読んだ。読みながら、本自体が汚れて感じるような下劣さだ。昨日、久しぶりにその人に会ったので「何であんな酷い本をすすめたんですか」と聞いたら、それには答えず「会う人全員にすすめている」とのことで、不快を拡散している張本人なのだ。

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山中の採石場などは工場萌えスポットだが、その道程は犯罪の匂いがする。