その先の奥へ

 小さい頃、自分が映った鏡と鏡を合わせると、何番目かの自分の顔が死んだ時の年齢になっているという都市伝説があった。合わせ鏡の顔なんて、たぶん判別できるほど鮮明じゃないから、何とでも言えるわけである。僕が合わせ鏡で想像したのは、これって「無限じゃん!」という発見であった。

 果てなきものを想像すると、自分の足元が揺らぐような感じがする。宇宙を想像すると、やはり「どこまで行っても宇宙」という感覚に揺らぐ。高校の同級生が、小さいことでクヨクヨした時には「宇宙の中の地球の日本の」と、だんだん自分のところに降りてくる想像をして悩みを消したそうだ。

 確かに、比較にならない対象を置くと些事は矮小化される。小さいなんてレベルじゃなく、その視点から見たら「無」に等しい。ただ、その手法で考えると自分の小ささに落ち込んでしまう。僕の足元が揺らぐのは、そんな手に負えない感覚である。だから、小さい悩みでも自力で解決したいのだ。

 無限じゃないけれど、秘めたポテンシャルの高さにワクワクすることがある。物量の充実に、一生かかっても触りきれないと思う瞬間だ。それでも、可能な限り掘っていきたいと思った。それは音楽だ。ポピュラーミュージックの音源と言い換えても良い。その沼は深く、広い。魅惑の底なし沼だ。

 洋楽を聴き始めた当初、なぜかビートルズは聴かないようにしていた。誰もが良いという音楽なんて「タカが知れてる」などと生意気にも思っていたのだ。あと、英語の教師がビートルズが好きで「英語を理解して歌詞の意味を知ろう」と勉強していたら教師になっていた、という話も嫌いだった。

 そういえば真心ブラザーズも「ビートルズを聴かないことで何か新しいもの探そうとした(@拝啓、ジョン・レノン)」なんて歌ってたっけ。僕の場合は、その時点では聴いてもいないので意味は違う。ただの逆張りというヤツだ。でも、いくら抗っても本物の魅力には勝てないので、今は好きだ。

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何年か前の河津桜。儚く散る桜の花びらも、その物量が感動を呼ぶ。