知らない宇宙を知る人

 自分には絶対にできないことを、当たり前のように生業にしている人がいる。人には向き不向きがあるし、適材適所というものがある。僕は何にでも首を突っ込みたがるのだが、その専門的な何かができないことを悔しがる無駄なやる気がある。そのやる気は、またの名を好奇心と呼ぶことにする。

 昨日、初めて会った人は、インターネットの込み入った世界のプロフェッショナルだった。つまり、僕にはほぼ何も分からないテクニカルな世界を構築する技術者だ。ひと回りほど年上なのだが、呼吸をするようにカタカナの専門用語が溢れ出すプロ中のプロだ。たぶん、あれでも抑えているのだ。

 そういうプロは、リテラシーが合わない人との対話にはストレスを感じるはず。待て、すでに彼の影響下にあるではないか。リテラシーなんて言葉を簡単に使うなよ。意味もあやふやなのに。いや、そんなことはない。分かるよ、僕だって。リテラシーってのは識字率、転じて共通認識でしょうが。

 何でこんな無駄な自問自答を挿入したかと言うと、リアルな人間の生な言葉で初めてリテラシーを使うのを聞いたからだ。それが生きた言語として躍動する世界に生きている人なんだなぁと、しみじみと感じた。すこし感動したと言ってもいい。僕の知らない世界に生きている感じが刺激的だった。

 カタカナ言葉には、嫌悪感を覚えるとともに抗い難い魅力があるのも認めざるをえない。前職の社長はやたらとカタカナ言葉を愛した。それとともに本人の口癖も多用した。僕がイチバン敏感に反応しつつ、シカトしていたのが「曖昧模糊」という四文字熟語だ。それは模糊が不要だと思うからだ。

 あ、完全に主題から逸れたな。とにかく、息をするようにカタカナ言葉を使いこなし、ついて行くのが精一杯な話を聞くことは、刺激的な体験だった。理系と文系が完全に乖離したものだと仮定すれば、僕にはカケラもない発想を持つ人なのだろう。でも、僕はその乖離は幻想なんだと信じている。

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自分と接点の遠い人との会合でも、飲食系のどこかには近い部分があるはず。