逢魔時にはお馬が通る

 仕事への後悔は尽きない。もっとできたことがあったんじゃないか、間違えを修正しないまま納めてしまったんじゃないか、手元を離れてから数日はその思いに捉われてしまう。でも、忘れるから生きられる。僕はことさら早く忘れるので次の仕事も早く進めては、まだ見ぬミスを悔やんだりする。

 そんな後悔の時間がよぎるのは、決まって仕事がヒマなときだ。年末にかけて差し迫った締め切りの仕事は済んでしまった。年明けにすぐ別の案件があるが、今は手をつけられない状態だ。このステイのタイミングで、過去をほじくるように自分の粗探しをしてしまう。そして不安の冷や汗を流す。

 全ては目に見えない誰かへの配慮なのだ。自分への直接的なクレームが怖いわけではなく、僕の仕事によって嫌な思いをする誰かがいないかを探ってしまう。直接それで連絡を取ることはないが、調べられるのならSNSを掘って状況を確認したいくらいだ。そんな胸を掻きむしられる瞬間がある。

 それは一瞬のことで、ある時間を過ぎると気が済んでしまう。僕の楽観的な部分と根っからの飽き性が、ひとつ所で思考を停滞させずに流してくれる。せっかくのヒマな時間なんだから大切に、自分のために使おう。どうせ月末になったら来年アタマの仕事が入るので、そうなれば不安も霧消する。

 僕はあまり読書家ではないのだが、絶えず本を読んでいたいとは思っている。それが、ここ数ヶ月は本が絶えていた。書店に行っても勘が働かない。新刊コーナーや文庫の平積みを眺めていれば、必ず何かしらピンと来る本があるものだ。その直感が来ない。そんな日々が続くうちに読書を忘れた。

 昨日の昼過ぎに久しぶりに書店を覗くと、何冊かのピンと来る本に出会えた。気分良く家に帰り、横山秀夫の本から読み始めた。読書をしていると、その間は頭がその作家の文体になっている。内省的になり、先のような仕事の反省タイムも深くなる。言葉を得て、その反省に名前が付いてしまう。

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ヒマな時にルートを決めずに散歩に出ると、思考の沼に落ち込んでしまう。