言葉の境界線を行く

 数字の語呂合わせで設定される記念日がある。今日は2のゾロ目なので、ニャンニャンニャンにかけて〈猫の日〉だそうだ。こういうダジャレ的な言い回しは日本でしか通用しないよな、と思って調べると、世界各国でそれぞれの猫の日が独自に設定されている。日本のダジャレは通用しなかった。

 むかしTVで観ていた映画の吹き替え版などで、海外の役者が日本的なダジャレを当てられているのを何度か観た。元のセリフでは絶対にそんなダジャレを言っているはずはないし、そもそも英語でそれを言ってもジョークとして成立していないだろうと思うのだが、そこを上手く当てはめていた。

 それは吹き替えを考える人の遊び心なのか、製作側からの発注によるものかはわからない。ただ、映画の雰囲気を損ねることなく、ストーリーの進行の妨げにもならないようにダジャレで色を添えるというのは至難の技のように思えた。そういうセリフを聞くたびに、大変な仕事だなぁと感心した。

 僕は、ある時期〈すべての言葉をダジャレで脳内変換する〉という取り組みを密かに行っていた。他人の発言を音の響きだけで聞くと、似たような言葉を当てはめることは容易にできる。ただ、それが意味をなす文字列になることは稀だ。ほとんどのダジャレは出尽くしてしまっていると思われる。

 それでも1日100個を目標に、隙を見てはダジャレを言っていた。別に面白くもなんともないのだが、回数を増やすことで地力を付けたかったのだ。ダジャレ王への道を目指したかったわけじゃなく、なんとなく言語感覚に優れた人間になりたかったのだ。その練習が〈聞き間違い〉だったのだ。

 いま改めて考えると何のための練習だったのかと思う。もしかしたら先のダジャレ吹き替えに起因しているのかもしれない。英語を日本語に置き換えるだけで大変なのに、それを日本的なセリフに再構築した上で、本筋の意味合いを変えずに日本のダジャレを組み込むという大技に憧れたのだろう。

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観光地の土産物屋に買うべきものはないと思うが、モノボケの宝庫ではある。