きっと空も飛べた頃

 この季節の主役は子供だ。夏を楽しむ場面で大人が登場すると美しくないような気がする。子供にないのはお金で、大人には楽しさを金で買えるアドバンテージがある。だから、大人になっても夏は楽しかったりする。マリンスポーツや、避暑地や南の島への旅行など、それは存分に楽しめば良い。

 でも、子供にとっての夏の楽しさというのは「時間を無限に使える」という自由を手に入れることによる。つまり夏休みだ。序盤は楽しいが、後半はやや持て余したりする。僕が小さい頃は、毎年両親の田舎である秋田に帰省するわけじゃなかったので、時にはとても退屈な夏休みを過ごしていた。

 近所の同年代がみんな旅行でいなくなると、ひとりで遊ぶことになる。ひとり遊びの定番であるボールの壁当てに没頭するのだが、瞬間的にゾッとするような寂しさを味わう。昼間の静かな町に、ボールとブロック塀がぶつかる音だけが響いて、なんだか、ここだけ時間が止まったように錯覚する。

 この手の夏の寂しさや、子供的なセンチメンタリズムによる空想から、いろんな創作物が生まれているような気がする。うる星やつらの映画「ビューティフル・ドリーマー」などはその最たるものだろう。これに似た設定で、同じ日がひたすら繰り返される作品は北村薫の時と人三部作にもあった。

 とは言え、僕が寂しさの中で感じたのは「この世界に生きているのは自分だけのように感じる」というものだった。だから、先の作品で言えば北村薫的な世界に紛れ込んだことになる。そんな時、僕はつい「忍者走りでも試したろか」と思ってしまう。どうせ誰も見ていない。やるなら今だ。走れ!

 この忍者走りというのは、壁に対して垂直、つまり地面に対して平行に走る技だ。アニメで見た忍者の走法。子供の身軽さなら、壁を数歩くらいなら走ることも容易だ。でも、僕は身軽な動きに劣等感があったので人前ではできない。誰も見ていないと、たまに走る。なんの役にも立たない技術だ。

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ひとり壁走りを楽しんでいる時、ふと見上げると誰かが見ている。恥ずっ!