努力原理主義者

 小さい頃から、何かを成し遂げるためには犠牲はつきものだと思い込んできた。スポーツならば努力、人並み外れた努力で成長するものだと思っていた。才能とか関係なく、イチバン練習したヤツがトップに行けるものだと、疑うことなく信じていた。それは、少なからず今でも思っていることだ。

 だから、小さい頃からやっていないとプロのスポーツ選手にはなれないと思っていた。それは、芸術分野のことでも同様で、小さい頃から素養を磨くトレーニングを自然に積んでいるものだと思うのだ。本人は努力だとも感じていない、日常の中に鍛錬が組み込まれている人もいるかもしれないが。

 僕は、努力が苦手だ。いや、むしろ努力に対してのリスペクトが大きいのだ。僕程度の努力で何かを成し遂げようなんて、そんな、おこがましいですよの世界だ。そりゃ、小さな目標をクリアするための準備くらいはする。そのために一定期間のトレーニングもするだろう。でも、長くは続かない。

 使った時間に対する対価として考えれば、あの人は「努力したから成功したんだ」と思えば納得できる。人生は公平で、僕も時間をかけて鍛錬すれば得られたはずの成功なんだと思い込むこともできる。そうやって気持ちを安定させるためにも、若い頃の努力に過大評価を与え続けているのである。

 僕に努力の大切さを教えてくれたのは、野球マンガ「キャプテン」だ。谷口キャプテンの闇練は、それをしたから強くなったと子供が理解するのに最適なテキストだと思っていた。アレに触発されて頑張ろうと思った人は多かったと思う。同世代で最近引退した元メジャーリーガーもそうだろう。

 不言実行という言葉がある。一念発起して決めたことは、誰にも言わずに黙々とやるって意味だと勝手に思っている。でも、僕は人に言わないとやれない。で、人に言ったことって軽く感じてしまう。本当に大事なことは、自然にやっていることだと思うのだ。だから僕は自然に努力できないのだ。