生まれた時からラスト1機

 仕事のやる気が見えない人に対して「命がけでやれよ」的なことを言う先輩がいる。でも、やる気が見えない人でも、生きているだけで命がけだと言うこと。本人は気がついているのか知らないけれど、生まれた時から命がけで生きていることには変わりはない。誰でも、絶対に死ぬから命がけだ。

 絶対に死ぬとわかっていることと、いつ死んでも良いというのは全く違う話だ。僕はあまり死にたくはない。いつか死ぬにしても、それはなるべく後の方がいいし、その時はなるべくなら幸せでありたいなどと淡い期待もしている。そのために今、何か努力をしているのかと問われると困るのだが。

 おおはた雄一の「おだやかな暮らし」という曲がある。その曲の一説にあるような暮らしが理想だ。ただ、面白くなさそうだなとも思う。穏やかということは刺激がない。刺激がないということは、インプットがない。アウトプットもない。ただ、そこに穏やかな日常があるだけの退屈なループだ。

 そんな生活は、もしかしたら生きている間に「ほとんど死んでいる」ような境地なのかもしれない。その暮らしを続けていけば、死は自然に受け入れられるような気がする。その延長に死が「確実にあるな」と実感できるだろう。お坊さんの修行にも、そんな覚悟を決めるためのプロセスを感じる。

 そもそも、そんなに日常の刺激を自分は欲しているのか。面白いことは自分の頭の中で生成される。材料があったほうが発想は浮かびやすいかもしれない。でも、結局最後に煮詰めるのは脳である。他人とのディスカッションや、刺激的な状況でモノを考えるわけじゃない。それらは単なる素材だ。

 そういう雑念がなくなってからでも、穏やかな暮らしの中でピュアな発想は生まれてきそうな気がする。プロの芸人でもないのに、ゼロから笑いを生み出してしまうこともありそうだ。ただ、笑うのは自分か、もしいれば自分のパートナーくらい。パートナーを笑わせるだけの生活、それも理想だ。

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隠居生活を想像すると思い浮かべるのは山側。先祖が山岳民族なのだろう。