ヘイボーイ、笑っておくれ

 以前はよく来ていた妹の家族が、最近は子供も学校が忙しいのか滅多に来ない。ワンシーズンに1回とか、両親のいずれかの誕生日などには顔を見せる。でも、近くに住んでいるので帰省という感覚もないので、泊まっていくことはない。本気で会おうとすれば30分以内で行ける場所ではあるが。

 僕が完全に意識を変えさせられたのは、この甥っ子姪っ子の誕生だ。それまでは、人生の主役として生きて来たつもりだ。でも、彼らの誕生で、僕は子供のために生きていると思うようになった。全ての大人は子供のために生きるべき。それだけがモチベーションで、それだけが生きている意味だ。

 別に自分の人生を放棄して子供のために生きているという意味じゃない。自分の収入の全てを子供のための基金に受け渡すとか、常時子供のことを考えているということもない。ただ、何かの選択を迫られた場面で「どうすれば子供が幸せになるか」という基準で考えるようになったというだけだ。

 そんな折に、この国を大震災が襲った。僕は関東に住み、それなりに揺れはしたが被害もなく成り行きを見つめていた。ただ、当時の感覚としては「これは本当にやばいのが来るかも」と実感したので、それが関東ではなく、東北に襲来していたことに後ろめたさのようなものを感じたのも事実だ。

 あの瞬間は家族の心配しかしなかった。自分の半径数メートルの世界のことしか思いやれなかった。家の中にいると揺れるので、外に出ると隣近所のいつも話さない主婦たちと声を掛け合った。そこでやっと、隣近所の人たちくらいは守りたいと思ったりした。でも、それは優しさじゃなく弱さだ。

 弱い優しさはすぐに揺れてしまう。時間が経つと薄れてしまう。言い訳として「忘れるから生きて行ける」と思ったりもする。でも、それは当事者を励ますための言葉。この国全体が当事者だけど、個人レベルで意識を保ち続けるのは難しいようだ。そんな時は「子供のため」と自分を励ますのだ。

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数年前に福島を旅行した時の喜多方ラーメン。旨い。大好き。