みる阿呆のやらない理由

 僕は、比較的身長が高く、むかしで言うところの座高も高いので、ライブ会場や映画館で気を使うことになる。だから、後ろの席のお客さんに「見えますか」と確認をとって、申し訳なさを表明しておくようにしている。そこで「見えません」と言われても、座り方の微調整しかできないのだけれど。

 スタンディングのライブなら、立ち位置を自由に変えられるので、ほとんど後ろを気にしないようにしている。中には「前の人が大きくて見えない」という声が聞こえてくることもあるが、それは初めてライブに来る人だと思っている。なぜなら、見えなきゃ動けば良いということを知らないからだ。

 若い頃の僕は、ライブには全然行かないタイプだった。中学生の頃に何度か東京ドームでのコンサートには行ったが、会場で実物を見る意義よりも、豆粒大のアクトを見るのに払った出費の痛手の方が優ってしまったのだ。だから、30代中頃までライブを見ようという気持ちもあまりなかったのだ。

 最初にライブハウスに行ったのは、友達のバンドが僕の当時の職場近くで演奏するので見に行った時だ。渋谷の職場に勤めていたので、周辺にはそのような会場がたくさんあった。ラ・ママに行った時は感慨深いものがあったけれど、それは「お笑いライブの聖地」的な意味での感慨だったと思う。

 そういう現場の体験を重ねるうちに、やはり音楽は「生で聴くもの」という気持ちが強くなってきた。単に音の大きさだけではなく、振動が、鼓動と共鳴するような感覚があった。リズムが原始の記憶を呼び起こすというか、内なる衝動から「動かずにはいられない」ような気持ちが芽生えるのだ。

 僕は、何か判断するシーンでは「踊る阿呆と見る阿呆」を比較して、踊る方を選びたいと思っている。無茶振りされたら言い訳して逃げるのではなく、何かしらの動きで返したいという気持ちがあるのだ。ライブを観に行くと、そういうアドリブ力のようなものを手渡されるような感覚もあるかも。

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今年8月の終わりに行ったスローライブは、座席だったので少し気を使った。