言葉に群がるハイエナたち

 特定の業界内だけで通用、または慣例的に使われている符牒のようなものがある。業界用語であったり、書類での指示を簡略化させたマークなどのことだ。そういった符牒を調べている知り合いがいる。そして、僕が仕事でそういう符牒を使っていないかと聞かれた。まったく思い当たらなかった。

 僕は自分のクセを矯正しがちである。手クセでやることは、後々ミスを呼ぶからだ。パターンができると壊したくなる。要領だけでサクサクいける仕事のルーティンを、わざと変えたりする。一人で行なう仕事が多いから、業務を不慣れな状態にすることで必然的にダブルチェック機能が作動する。

 いや、そんな目論見があってのことではないのだが、飽きないようにやり方を変えている。同じ仕事がコンスタントに入らないので、ルーティン化させられない部分もある。でも、我から要領良くやらないように心がけてもいる。つい効率化に走りがちなのだが、効率的にやった仕事は可愛くない。

 手間のかかる作業を増やすことになっても、回り道した仕事はミスが少なく綺麗だと思う。その手間こそが手クセだとも言えるが、仕事に個性を押し込んでいるわけじゃない。プロセスの選択法に僕の個性が、性格が表れている。自分が選んだやり方で仕事できるのは、フリーランスだからである。

 そこで冒頭の話だが、僕が請け負う仕事の業界内には符牒が多くあることは想像できる。でも、僕に振られる仕事においては符牒で注文されるわけじゃないので、こちらも通常のビジネス用語でやりとりする。そこにおいては、特殊なマークや業界用語の類いは介在していないと思っているのだが。

 中にいるとわからない、外から見たら符牒だと思うこともある。先の知人はそう言って、ちょっと考えてみてと宿題を出された。考えるのは楽しいことだが、期待に応えられないのは気が重い。知人と同様に、僕もどちらかというと言葉の人間なので、普段から意識して言葉を発しているつもりだ。

もともとホルモンも肉の捨てる部位を指した「放るもん」から来ているらしい。

街角にブックマーク

 近所のラーメン屋で昼メシを食べたあと、その店の近くに古本屋を発見した。ずっとそこにあったような佇まいだったが、この界隈に引っ越してきて10年以上経っているのに全然気付かなかった。もしかしたら最近できたのかもしれない。そう思って見ると、いや、看板には年季を感じさせるぞ。

 地元の商店というのは、なんとなく入るのに勇気がいるものだ。それは怖いという意味ではない。それよりも、その土地の人間の呪いのようなものだ。平日の昼から古本屋に顔を出す中年男が、その町で如何なる噂をされるかは想像に難くない。そんな懸念を残しながらも興味が勝って店に入った。

 実は古本屋で欲しいマンガがあった。ドカベンの31巻だ。特にドカベンが好きなわけではないのだが、少年チャンピオン黄金時代の最高傑作だと誰かが熱く話すのを聞いて、ぜひ読んでみたいと思った。話を聞く限り知っているエピソードなのだが、それがひと塊りに載っている特盛り巻なのだ。

 全国チェーンの古本屋グループで探しても、無駄足に終わりそうな予感があった。だが、地元の個人店ならば可能性がありそうだし、無かったとしても落ち込まない。そりゃ、そうかと思うだけだ。そして、無欲な時の僕は意外な強運の持ち主だったりする。そこに期待した時点で無欲ではないが。

 そんな僕の心根を読まれたのか、やはりドカベンの31巻はなかった。そこに並ぶ漫画のラインナップは、狭い店内の割にはビッシリと揃っていた。でも古いドカベンはなかった。プロ野球編が何冊か置いてあったが、それすら奇跡のように思えた。果たして僕は、今後どこかで出会えるだろうか。

 その古本屋でドカベンがないことを確認した時点で店を出ても良かった。でも、なんとなく気まずかったので小説コーナーもチェックしてみた。こちらのラインナップも悪くない。それはつまり、僕の本棚に似ているってことだ。だから買う必要がない。僕の趣味がいかにミーハーかを思い知った。

季節外れの写真だが、季節を問わずこの花の香りはいろんな場所で漂っている。

ナイトメアフィーバー

 もともと体温が高い方だと思う。平熱で37度近くある。体温が高い方が免疫力が高いというメリットがあると、最近は聞く。実情は知らないけれど、子供の頃から現在に至るまで、僕の平熱は大体そのくらいだ。だから、昨今のようにシビアな感染症対策社会では、微熱と警戒されることはある。

 そんな感じで、僕は熱には耐性があると自覚していた。過信と言っても構わない。平熱が高いんだから、多少は熱があっても元気でいられると思っていた。それは、実際に学生時代は通用していたし、その気持ちで数年前まで当たり前のように生きてきた。その過信が通用しなくなってきたようだ。

 とにかく、微熱があると変な夢を見る。眠る前に「悪夢を見そうだな」という予感がある時もあるし、何ら前触れなく嫌な夜を迎えることもある。それは風邪気味の夜だったり、夜中に寒さに震えてキャッチアコールドしちまうこともある。そして、夢と現実の狭間で最悪の気分を味わってしまう。

 夢は人に語るものではない。ただ、面白ければ言いたくなる時はある。それは、ある種の発想の面白さで、そういう発想が自分の中にあると思うと嬉しくなる。そういう発想のバリエーションとしての夢ならば、なにかのクリエイションに繋がって欲しい。それは普段の思考から派生した創作物だ。

 でも、僕が高熱にうなされて見る悪夢は、そういうポジティブな発想の何かではない。単なる警鐘の類だろう。体の異変を伝えるメッセージなのだと思う。心の異変のようにも感じる。メンタルが傷付けられているのだろう。体と精神の密接な関係は、経年劣化とともにダイレクトに伝わってくる。

 そうやって、嫌な予感として見る夢は、いつも変なリアリティを残してゆく。現実との境目をかするラインで、僕のメンタルを揺さぶる。たぶん僕は、すでに、とっくに病んでる。それは中年の危機というヤツだろう。そこに関しては実感している。医療のバックアップを受ける段階かは知らない。

夢を食う動物はバクだが、写真はインドの山奥で見かけた観光用のヤクである。

ポセイドンのギフト

 数年来の自粛ワールドの余韻で、いまだに遠出は控えている。出掛ける気持ちになれないのだ。実際まだ完全に無警戒でウロウロして引け目を感じないわけではない。ウイルスに感染するリスクは高いし、そうなった時にはそれなりの手続きがいるだろう。それでも前よりは出口に近い現状だろう。

 そんな数年のあいだ、僕は海に行ってない。出張で通り過ぎたことはあるが、目的地として海に行ってない。僕が海に行くのは、ある種の苦手の克服だ。あまり泳げないけれど、そっち方面の苦手ではない。若い人が夏の海で遊ぶハシャいだ感覚、あれが苦手なのだ。だから、夏の海には行けない。

 それでも、海への憧れは強くある。それは海なし県民の性だ。生活の中に海があるというのは如何なる感覚なのだろう。そういう日常と地続きの海を味わいたくて、オフシーズンの平日にフラッと海を目指したりする。海の成分を摂取するかのように、年に一回くらいは海を見に行くことがあった。

 思い返すと、学生時代はあまり海に行かなかった。部活が忙しかったので行きたいとも思わなかった。最初の会社に入ってすぐに、先輩社員のクルマで伊豆に行った。夜中に出て、早朝の海辺でバーベキューした。他人の主導で行くのは楽だ。僕にとって海は、誰かに連れて行ってもらう所だった。

 その会社を辞めて、インド旅行に行った。気ままなバックパッカーごっこだ。南インドの海沿いを無目的に移動していた頃、ある町で数週間過ごしていた。そこの海で夜の散歩を楽しんでいると、海に映る月の明かりが一筋の道になっていた。そんな景色を眺めていると、おセンチな気持ちになる。

 その景色を完全にパッケージすることはできないと思ったが、手元のカメラで撮ってみた。すると、そのシャッター音に反応する気配を感じた。月明かりの海辺にしゃがみ込む人影チラホラ。そうだ、インドの人は海で踏ん張るのだ。さっきまでのセンチメンタルが消えて、愉快な気持ちになった。

海岸寺院の向こうは浜辺になっていて、夜の波打ち際はウォシュレット化する。

ワイルドキャットの夜

 犬派猫派論争。僕はどちらの派閥にも属さないが、人から聞かれたら「犬の方が好きかな」と答える。犬とは縁がある。別に良い話でも何でもないが、よく噛まれる。小さい頃から最近まで、何度か印象的な噛まれ体験があった。だから恐怖の方が優るのだが、それでも接点があるだけ犬派に近い。

 知り合いが捨て猫を飼っていたことがあり、その家に行くと猫の痕跡や臭気が漂っていたのを覚えている。僕が貸した漫画に粗相されて険悪になったこともある。あの漫画は「拳児」だった。僕が大好きな漫画を全巻貸したら、そいつが読む前に猫の排泄物で汚れた。あの時は冷たい怒りを覚えた。

 たぶんそいつはハナから読む気がなかったのだ。押し付けられた漫画を放置して、読まずに済む理由を探していたのだ。そのことが実感できたので、僕の心の芯が冷えた。人間の嫌な部分を見せられて、怒りながら冷めたのだ。そいつとは現在没交渉となっており、以来猫のことも少しだけ嫌いだ。

 ペットを飼ったことがないので、動物との触れ合い方が分からない。いや、実際ペットを飼う必然性はないので、触れ合い方なんて分からなくて良いと思うのだが。動物と人間は傍観者の関係で、お互いに警戒し合うくらいでちょうど良いと思う。そんな本心は言えない。そんな風潮に負けている。

 傍観者としてなら、僕は野良猫を見かけるとちょっと嬉しくなる。現在では野良犬はいないので、ヒモに繋がれていない犬を見ることはない。でも、人に飼われていない猫は自由で、その動きを注視してしまう。夜中にパッタリ路上で野良猫と向き合ったりすると、お互いに様子見で動けなくなる。

 野良猫と言いながら、商店街などでよく見かける猫などは、その地域の共有ペットみたいに可愛がられていたりする。そんな地域のアイドル猫が、年齢的に野良暮らしが厳しくなってきたらしく、行きつけの居酒屋の店主が飼うようになった。そして、つい先日その最後を看取った。安らかに眠れ。

居酒屋に勝手に入ってきて、お気に入りの席に陣取ってくつろぐ当時の野良猫。

アンバランス・スティック

 僕は割り箸を割るのが苦手だ。無意識に割ると必ずアンバランスな割れ方をする。もともと割り箸って長さが物足りないのだが、バランスを欠くと短い上に持ち難い。全飲食店が再利用できるタイプの箸に変更すれば良いのに、今でも割り箸が幅を利かせている。誰も納得していないと思うのだが。

 エコロジー的な思考の人にはムダだろうし、僕のような割り箸苦手勢にとってはトラップでしかない。しかも、エコロジー的な気持ちは全人類が平均的に持ち合わせていると思うので、その考えに則ってみると、極端に割りを失敗した時も交換し難い。だから持ち手にムダなストレスが掛かるのだ。

 現状ある割り箸の在庫を消化しちまえば、その店は次からは割らない箸に変えてくれるのかもしれない。もしそうなら、僕のような割り下手が割りまくって、綺麗に真っ二つ割れた箸だけを使うキャンペーンをしようではないか。ハッキリ言って10回に1回くらいの頻度でしか綺麗に割れないぞ。

 また、割り箸の中には芯が腐っているのか、弱すぎて食べ物を持つだけで真ん中から折れてしまうものもある。これも、ハズレくじを引く運を持っているからなのか、かなりの頻度で出会う。その箸に当たるたびに、物凄くガッカリするし疲れる。なんだか店から「食べんな」と言われた気がする。

 ラーメン屋がもっとも割り箸が蔓延っている気がするが、居酒屋も割り箸のところが多い。僕のような食べ飲みタイプは、もう席を立つごとに割り箸を落とす。飲酒時は割り箸をムダに使うことに抵抗は皆無なので、全く気にせずバンバン使う。そして、割り下手の能力も惜しみなく発揮しまくる。

 そんな居酒屋の割り箸で気になるのは、サラダと割り箸との相性だ。割り箸でサラダを食べると美味しくない気がする。あの、加工した木材の匂いと葉物の食べ合わせが良くないのだろうか。ドレッシングが強い味だったら気にならないが、あっさり系だと際立つ。もう割り箸使うのヤメようかな。

まさに割り下手の真骨頂。大好きなラーメン屋の大嫌いな部分、それが割り箸。

過剰な宴による減量法

 僕に自傷行為の癖はないが、たまに乱暴な欲求が抑えられなくなる。一昨年から健康のために体重を90キロ未満にキープするようにしているのだが、そのためにはジョギングをしなければいけない。散歩でも良いが、部活野郎なので走らないと気が済まない。そのジョギングを数ヶ月やめている。

 走らないと体重は増える。今年の頭に計ったところ、2キロほどオーバーしていた。せっかく積み上げてきた数字が、たかがコロナ感染からの怠惰によりムダになろうとしている。そんなことを常に考えているので、気持ちよく食事を食べられない。そんなストレスが、僕のあるスイッチを押した。

 もう、食事制限や体調管理のためのジョギングなんて「どうでもいいや」と思ってしまったのだ。天気が良くて、自ずから走りたいなと思うなら走れば良い。でも、体重を目標の数字にキープするためにわざわざ走るのは無意味に思えてきた。何より、僕が行きたくない。走りたがっていないのだ。

 なんとなく食事制限の方は続いているが、アルコールを摂取した日は炭水化物は控える程度の軽い制限だ。あとはご飯をおかわりしないなどで、それにより必然的に食事の量が減る。それは楽しくない。僕の中でバランスが崩れてきた。差し迫った理由のない健康への取り組みは人の心を腐らせる。

 正月は、僕の大好きな餅が家に常備されている。餅は別腹ルールになっているので、食べまくっている。今年は3ケタ体重の50代ということになりそうだ。そうか、僕は今年で50周年を迎えるのだ。そりゃ痩せていられない。誰かに祝われるでもなく、我から半世紀祝いの宴を開催するべきだ。

 定例企画というものがある。僕の仲間たちとの飲み会をレギュラー化し、年間スケジュールに取り込んでしまえば良い。それによって動きが生まれる。動けばカロリーが消費され、自然に痩せる。そんな活発な行動により、50周年の活動がアピールできる。そして飲み会の予算管理も容易になる。

行きつけの居酒屋でゴネて作ってもらうようになった揚げ餅。とにかく美味し。