超ベリーグッドな言語感覚

 ある出来事に関して、あたかも何かの論争が巻き起こっているかのように感じさせるワードとして「◯◯問題」などと評したり、口にすることがある。いかにも大ゴトで、上から「あの問題があるじゃないですか?」などとマウンティングを取るような表現だ。素直な僕は、そこで機先を制される。

 知っている人間だけで通用する言葉を使うことで他人を排除することは、古くからあるコミュニケーション方法だ。身近な言葉では、若い女性(あえて言おう、ギャルである)が全然意味のわからない略語で話したりするヤツだ。元総理大臣の孫のバンドマンが使う短縮アルファベットも同じ類か。

 孫バンドマンのアレはちょっと遠いのだが、ギャルの間で知らない間に浸透している言葉は割と興味深い。かつてはTVで「このギャル語知ってる?」みたいなクイズがあったりしたので多少は理解できた。でも、もはや直のコンタクトもなく、TVでも紹介しないので最新の言語は知る由もない。

 SNS上で流行っているギャル語があったとしても、閉じたコミュニティの中身を中年が見ることはない。たまに漏れ聞こえてくる使い古しを聞いて、思えば遠くへ来たもんだと、世代間の隔たりの距離に呆然とするばかり。こうなったら中年語を捏造したろうと思うが、その典型が駄洒落だろう。

 最初に勤めた会社で、僕が入って何年目かに入社してきた新入社員の高卒の女の子が、自分のことを「ウチ」と呼ぶ世代の子だった。こういう特殊な言葉遣いを中年は嫌うので、僕はちょっとだけ警戒していた。中年社員は直接注意できないので、先遣隊として僕あたりに注意させるような予感だ。

 結果から言うと、そんな指令は下りてこなかった。僕のナイーブな感性が、彼女がウチと口にするたびにピリッとしただけだ。それは、つまり僕個人の嫌悪感だったのだ。若い人間が上の世代に負けないように放っている反抗のエネルギーを彼女の一人称に感じていた。それが眩しかったのだろう。

酒場の若い女子店員のカレーには、彼女の弾ける感性が隠し味になっている。

ミカエルとルシファー

 正義漢を試されるような選択の場面で、天使と悪魔が両側から囁くような心理描写がマンガの定番的な表現としてある。そんな場面には滅多に遭遇しないが、先日街を歩いていたら、前の方で若者2人組がタバコをポイ捨てして立ち去った。一瞬「行ったろうかな」と思ったが、結局はスルーした。 

 なぜ行かなかったのか明白な理由がある。それは、その若者が僕と交番の間にいたからだ。僕が注意をしてケンカになると、目の前の交番から出てきた警官は僕を注意するだろう。そんな想像が一瞬で浮かんでしまったので、不条理な目に遭いたくないので無視した。あと物理的な距離も遠かった。

 もうひとつ理由を挙げるなら、僕ひとりなら声をかけてタバコの吸い殻を処理させるだけで止めようとする。そこで悪態をつかれたとしても、諦めて「仕方ないか」と結局スルーする。でも、僕は待ち合わせをしていて、その相手が若者の近くにいたのだ。彼は正義漢なので絶対に許さないだろう。

 実際に彼が若者を注意して大暴れしたところを見たことがあるので、10年以上経ったとしても本質は変わってないと思われる。だから、囁く天使を説得してスルーした。僕が本当に天使なら、その捨てられたタバコの吸い殻を然るべき場所に移動させるだろう。しかし、僕は天使なんかじゃない

 僕が喫煙者だった頃は、駅のホームでタバコが吸えた。さすがにホームの柱のすべてに缶の灰皿が備え付けられていた時代ではないが、ホームの突端に喫煙エリアが設けられていた。そして、毎朝の通勤時にそこで一服したものだった。その吸い殻入れはいつも煙っていた。火を消してないからだ。

 その頃の僕は、缶コーヒーを飲みながらタバコを吸っていた。コーヒーが好きで飲んでいたわけではなく、セットになっていたのだ。だから、煙でくすぶった吸い殻入れに飲み残しコーヒーをかけて消化しようと試みることが多かった。当然ながら、そんな微量の水分では消えない。そんな思い出。

待ち合わせた先輩と向かった酒場でビール。話題は痛風と尿酸値の話ばかり。

コンセントレーション鉄道

 長時間電車に乗ると、だいたい何処かで席が空くので座る。僕は電車の中で立っていると腰が痛くなるので、なるべく座れるように座席を見まわしている。多くの人が慎み深いので、席が空いても即座に座ろうと焦る人はあまりいない。だから、どう見ても座る気マンマンの僕に譲ってくれるのだ。

 特に電車が混んでいると、僕のように周りとサイズが合わない人間は邪魔だ。僕が座った方が電車の最大積載人数も増えると思うし、立っている乗客のバランスも向上するような気がする。混雑時の車内では、力を抜いた方が疲れないし、自然に位置が決まる。その位置が僕の場合だけ決まらない。

 とにかく、いろんな理由をつけているが、僕は電車内では座りたいタイプだ。サイズ的に邪魔なので優先席に座らせて欲しいところだが、よっぽどガラガラの車内でない限りは優先席には座らない。でも、混雑時には優先席の近くで立つことが多い。経験上、あの辺りがイチバン空いているからだ。

 昨日も、埼玉の端っこから東京の川崎寄りのエリアまで電車で向かった。長時間の移動なので、当然ながら途中で座った。往復で2時間半ほどの電車移動は疲れる。尻の皮が剥けることもある。昨日は尻は無事だったが、長時間座っていたことによるコリが残った。ほぐすために酒場に立ち寄った。

 このルートでの移動は、毎月1回ある。昨今の自粛生活で電車移動が激減しているので、この月イチのロングトレインだけが僕の鉄道プレイになっている。電車の楽しみは読書と音楽鑑賞だ。お気に入りのプレイリストを聴きながらの読書と言いたいが、実は本を読んでいる時は音楽は聴いてない。

 いや、音は流れているのだが、活字に集中している時は聴こえてこないのだ。逆に音楽が聴こえてきて、そっちに意識が向いたら活字は読まない。傍目からは両方同時にやっているように見えるかもしれないが、実際は片方はポーズでもう片方の行為に専念している。だから、両方とも必要なのだ。

ちなみに昨日の電車内で読んでいたのは、「筒美京平の記憶」という増刊だ。

僕の好きな寮生活の話

 大学生の頃、ラグビー部員の大半は私設の寮に入っていた。都内在住の学生と、入学後に入部した者以外は、まだ高校を卒業する前から入寮していた。僕は教習所に通っていたので、泣く泣く退所して寮に入った。結局その4年後に改めて合宿で免許を取ることになる。そんな寮生活のスタートだ。

 朝練があるので、寮の朝はとても早い。朝食と晩飯が付くのだが、特別な理由がない限りは絶対に食事は食べなければいけない。ラグビー選手にとって食事も大事なトレーニングの一環ではあるのだが、僕はもともと大食漢なので食事の時間は楽しみでしかなかった。寮の食事も結構美味しかった。

 他の同級生は味がどうだとか、ご飯の硬さがあーだとか好き勝手言っていたが、僕は卵焼きが甘いこと以外は何も文句はなかった。ただ、最初の1年は食事の当番が回ってくるので、食事の準備を手伝ったり、食器洗いをしなければいけない。そこで僕は、その後の人生に繋がる大きな学びを得る。

 先輩のひとりに、体は細いのに食事は大量に食べる人がいた。体型的には僕に似ているのだが、その人の食べ方が汚かったのだ。必ずご飯をお代わりし、最後は納豆を白米とゴチャ混ぜにしてかきこむ。子供の頃は僕もそうやって食べていた。でも、ああして食べて汚れた茶碗を洗うのは僕なのだ。

 それから僕は、納豆を茶碗に触れずに食べる努力をするようになった。この食べ方は今でも続いている。この件だけでなく、集団での生活には気づきが多い。それはチームスポーツをする上での連帯感を育む意味でも大事だが、何よりも生きる上でのバイタリティになる。サバイバルの知恵である。

 この寮からは訳あって1年で出てしまった。だから、上級生になってからの寮生活の楽しさを知らない。いや、学生寮に入り直したから、その時は3年生だったので上級生ではあった。でも半年しかいなかったし、同部屋の後輩に気を使うだけで最初に入った寮のような親密さは感じられなかった。

ラグビー部寮の近くにあった世田谷線の駅舎は古い趣きのある良い駅だった。

その空白は埋められない

 なにか大きな悩みを抱えていそうな人がいても、当人が具体的に悩みを打ち明けてくれない限り、周りは動けない。当たりをつけて誘導尋問してみても、流されてしまったりする。流すということは、具体的な悩みの本体がまだ生々しい状態ってことだろう。つまり、他人に触れられたくないのだ。

 他人に触れられたくない悩みがあることが外側に漏れているということは、それだけ大きな悩みなのだ。周りは少ないヒントから類推して想像するのだが、本当の答えは教えてもらえない。むしろ、その本質を避けている様子が見られるので、どんどん聞けない状況になる。カミングアウト待ちだ。

 とは言えコチラも、それを待っているわけでない。言いたければ言えば良いし、言いたくなければ黙っていてもらって構わない。それが気になってしまうのは、当人の態度に平時と違う兆候が出まくっているからだ。こんなに普通じゃないのに黙っているのは、同じ酒場の住人として看過できない。

 それでもやはり黙っている。酒場の常連同士というのは、一期一会のものだ。そこから一歩先の付き合いに深まることもあるが、すべての人とそんな風に付き合っていたら忙しくて仕方ない。その場所をキーにして、そこでのみ繰り広げられるひと夜の宴で構わないのだ。その宴がザワついている。

 個人的な悩みを見せないように振る舞うというノイズが、四方八方に不協和音を飛び散らせてしまった。別に大きなトラブルがあったわけではないのだが、例えるなら新しく入ったバンドメンバーが自己主張しまくったような夜だった。そのことで気まずい思いをしているだろうことは想像できる。

 僕はその件に関して実害があるような深い関係性の人間ではないのだが、たまたま席次の都合で巻き添えのようなカタチになった。僕は部外者ヅラしてゴキゲンに振舞っていたのだが、内心穏やかじゃない人がイライラを募らせないように中間管理職のように飲んでいたので、ちょっとだけ疲れた。

どこにも旅行に行かないGW、毎日飲んでいるので酒場での珍事件は起こる。

ニューエイジ、ノーエイジ

 年を重ねるごとに、人付き合いの中で年齢差ほど無意味なものはない。縦軸の関係性を重視するあまり、上下関係に縛られてコミュニケーションが上手く取れないことがある。僕のような体育会出自の人間は特に、先輩に萎縮する部分がある。でも、そんな風に縛られている人間はもういないのだ。

 僕からの目線で言えば、後輩に対して先輩風を吹かせることほど恥ずかしいことはない。そこは人間力で勝負することになり、弁の立つ後輩にあえなく丸め込まれることも多々ある。それで構わない。僕から下の上下関係がすべて崩壊していたとしても、それは何ら問題ないし、素晴らしいことだ。

 むしろ僕から上の世代に対して、僕はどうなのだろう。先輩は怖いというより、普通に強いというイメージがある。もちろん、ただ僕より年上だというだけで怖いということはない。同じ部活の中で切磋琢磨した、素性の知れた先輩に限ってのことだ。僕は年上だというだけで尊敬することはない。

 やはり、先輩にも資格があるのだ。資格のない人間は、単なる年上だ。僕より老いた人間というだけのことだ。尊敬されたければ、尊敬に値する振る舞いをするが良い。学生の頃は、そこまで割り切れてはいなかった。でも、どうしても尊敬できない先輩はいた。そういう人には近づかないものだ。

 結局、体育会というものは、後輩が付くものなのだ。ヤンキー体質の延長として、強い引力のある先輩に子分がたかるのだ。その性質は体育会と寸分たりとも違わない。僕のような非ヤンキー系のピュア体育は、やはり軽くナメられるのだ。その辺は居心地の悪さを感じつつ、受け入れるしかない。

 さて、部活の世界から遠く離れた昨今、僕は先輩たちとどう付き合っているのか。仲の良い先輩とは、ほぼ友達と変わらない関係性を作れていると思う。でも、学生時代に本気で怖かった先輩は、普通に今でも怖い。体が拒絶反応を起こす。変な汗もかく。部活の洗脳は、しばらく解けそうにない。

だいぶ前に先輩に連れて行ってもらったラム肉専門店。胃袋掴みは大事だ。

あなたのお名前なんてーの?

 昨日、酒場のカウンターで飲んでいたら、その店でバイトをしていた男の子が隣にきた。古い知り合いなのだが、久しぶりの再会で名前が出てこない。確か下の名前で呼んでいたのに、何故か苗字の方だけが思い出せた。でも、普段呼ばない苗字で声をかけるのは気が進まない。ここは誤魔化そう。

 仲の良い友達などには、あえて素気ない感じで苗字で呼ぶことで生まれる変な間を楽しむことができる。ある種の言葉遊びであり、信頼関係の確認作業でもある。これを微妙な関係の人間にやると、本当にイヤな間ができて気まずくなるのだ。そこを見誤らないのは、運動部での経験によるだろう。

 部活内では、基本的にはみんな仲間だ。その前提はあるが、大勢の部員がいれば全員と仲良しということはあり得ない。僕がそう望んだとしても、相手がそう思わないこともある。なるべく広く付き合おうと思うと、大事な仲間からの信頼を失うこともある。そういうバランスは大嫌いだが、ある。

 あと、部活には縦軸の関係性もある。先輩後輩の上下関係だ。僕は先輩には弱く、後輩には甘いタイプだった。その関係性の中でもバランスの読み合いはあり、特に先輩に関しては程よく甘えるというプレイが重要になる。ただの使いっパシリはツラいので、先輩には適度に甘えなければいけない。

 ここがもっもと体育会能力を試されるのだが、ヤンキー系の人間はここを容易くクリアする。会話の端々に地元の勢力を匂わせれば、ひとりの先輩なんて軽く落とせる。別にそんな勢力の後ろ盾なんてなくても、匂わせるだけで面倒臭い。ただ、その先輩が地元で伝説のヤンキーの場合は無意味だ。

 冒頭の話に戻そう。名前を忘れてしまった人間が隣に座って、会話しつつ飲むことになってしまった。歳下とはいえ、今さら名前を聞くような遠い関係ではない。それに、脳の活性化のためにも思い出したいところだ。そう思って会話の中にヒントを探ったが、結局思い出せず、さっき思い出した。

このラーメンをどの店で撮ったのか思い出せなかったが、さっき思い出した。